食彩の王国

「スローフード」という言葉が巷間つかわれています。
「自然食」がブームとなり、「産直」が人気を呼び、職人手作りの「特選の味」が求められています。この番組は“食”に関する現代社会の志向・ムーブメントを、「食材」という切り口を集約して映像展開する番組です。
ひとつの食材に秘められた人類と食に関わる文化の歴史。あるいはひとつの食材が生み出されるための手間とヒマ。そして、食べる側から言えば、ひとつの食材を手に入れる(つまりは出会う)ための喜びの総体。そうした「食材」の中に流れる時間を語り映像化することが、この番組のテーマであり核心です。


食彩の王国 第287回「コハダと新子(シンコ) 
2009年8月8日(土)午前10:55~11:20(25分番組)
テレビ朝日(ANB)系列にて放送(関東ローカル)
BS朝日 毎週月曜日 午後10:00~10:25 一部再放送
ナレーション 薬師丸ひろ子
製作(株)テレビマンユニオン

 かれこれ7年間も続いている良心的な長寿番組です。当店も以前にサヨリとクルマエビの番組で出演したことがあります。B級タレントによる旨い、不味いの単純な食材・料理の紹介ではなく、食材とそれに纏わる日本の食文化を丁寧に取材し、薬師丸ひろ子さんのナレーションで紹介して行く番組です。
 今回は、江戸前握りすしの元祖であり、華でもあるコハダを取り上げ、さらにそのコハダの幼魚(生後3〜5ヶ月)であるシンコを徹底的に取り上げて行きます。
 当店の築地市場でのコハダとシンコの仕入れ・選別の様子。仕込みの様子。片身付けのコハダと3枚付け(一握りのすしに3枚のコハダを使うこと)のシンコを握る様子、等々、江戸前握りすしのコハダとシンコの全てが公開されます。

 シンコの初物の登場は、昭和の終わり頃までは毎年8月上旬頃で、3枚付けぐらいの大きさに成長したシンコを初物として握ったものでした。季節感としては残暑お見舞いの頃の登場です。夏の暑さの最盛期で魚種も少なくなり、少しだれ気味の江戸前すしの世界に、突如としてコハダのセリ値より40倍から50倍もの、狂の字の付くほどの最高値を背負っての颯爽とした初登場となるのでした。江戸っ子の粋と、意地と誇りと見栄をかけて、都心の最高級店達が店の格をかけて、快い緊張感を愉しみながら競って仕入れて行くのです。

 しかしバブルの後半から平成に入っての頃より、初物の登場が年々早まってきました。7月の下旬から中旬、さらには上旬。そして8年前頃からは遂に6月の下旬から、さらに早い時には中旬にまで遡るようになってきました。
 このシンコの早期化の原因はなんだったのでしょうか?
 ずいぶん間抜けな話ではあったのですが、すし屋はみンな温暖化のために産卵が早まって来たためだと、ただただ単純に錯覚させられていたものでした。

 4年前の平成18年7月8日、遠州灘の水温が異常に低いための影響で、浜名湖のシンコの初登場が遅れに遅れた時、勉強のためにと現地訪問しました。その時、その前日に浜松中央卸売市場で初物のセリがあり、キロ単価80,000円の狂騒的な高値を付けたのでした。当時の初物の相場はキロ単価50,000円前後だったために、産地でもその高値の馬鹿さ加減に大騒ぎだったのですが、この時のシンコのサイズはメダカのような大きさで、一貫の握りすしに10枚付けないと握りすしの様にならないような大きさなのでした。

 その時、素朴な疑問が生じました。
 何故こんなに極小のシンコが獲れるようになったのだろうか?
 網目からどうしてこぼれてしまわないのだろうか?
 他の魚介類に適用される獲ってはいけない魚種の大きさと、そのための網目の大きさの規制はどうなっているのだろうか?

 現地で親しくなった漁師に疑問をぶつけると、意外だが当然の答えが返ってきました。
シンコを獲る“袋網”と呼ばれる小型定置網の網目を次々と細かくして行ったのだと言うのでした。コハダは出世魚で、シンコ・コハダ・ナカズミ・コノシロと大きさによって、4回名前が変化してゆきます。江戸前すしで普段使われるコハダの値は平均キロ単価1,000円から2,000円ですが、シンコの初入荷から2週間くらいの間は、毎年50,000円前後を付け続けるのが当たり前となっています。それが80,000円もの値を付けたのです。これはただただ初物で、たった500g程度という超極少しか獲れなかったが故に超高値が付いてしまったのです。
  漁師達が、誰よりも早く獲るために、網目を細かくして、早い者勝ちの競争をして行った当たり前の結果だったのでした。なぜなら半月もすればキロ単価3,000円前後に大暴落してしまうのですから・・・。
 そしてこの極小のシンコを競争で乱獲して行った結果、さらにまた当然の結果が生じてゆきました。最近、築地市場でコハダの入荷が一寸でも少ないときにはキロ単価3,000円から4,000円付けることが当たり前のように多くなってきました。シンコの乱獲競争による資源の減少が、最近のコハダ相場の常態的高値の大きな原因となってきているのでした。

“初物の一瞬の旬”を愉しむためのシンコとは言え、10枚付けのシンコが本当に旨いだろうか? 5枚付けのシンコが本当に旨いだろうか?
 シンコ本来の旨さは3枚付けから2枚付けの大きさに成長することによって初めて生じてくる旨さだったはずなのです。それが昭和の終わり頃までの、残暑の頃に登場してくる季節感のある初物のシンコの、初物ゆえの感動的な旨さであったはずなのでした。
 面白さのためには何でもありの、節操の無いマスコミの長年にわたる繰り返しの過大報道によって、不本意にもすし屋とお客さん達が共々に煽られ踊らされてしまったようです。さらにはその情報に便乗した産地の漁師達による極小のシンコの乱獲は、コハダ資源の減少という結果まで生じさせてしまったのです。メダカのような極小シンコの異常な狂乱高騰という、いくらなんでもあまりにも不当に行過ぎた現象と、シンコ本来の旨さと旬の再現のために、この時以来、決然と反旗を翻し(内心では忸怩たる思いのなかにあるのだが)、当店では3枚付けの大きさの登場までは、シンコの仕入れを控えることを宣言したのでした。
 しかし今年の浜名湖は4年前と同じように再び水温の低下に見舞われ、初漁の遅れと漁獲量の異常な僅少さ、そして成長の遅さという状況の中で、8枚から10枚付けの極小サイズが、キロ単価90,000円から95,000円と、さらなる狂乱の高値を付ける年となりました。
 しかし、今回の食彩の王国“コハダ・シンコ”篇では、この3枚付けのサイズの入荷まで、あえて取材を伸ばしてもらうことになりました。7月17日の、キロ単価60,000円を付けた3枚付けのシンコの、当店初入荷の感動と試食の愉しみの様子を撮ってもらいたかったからでした。

新子

 7月早々、そろそろ梅雨明けの声を聞き始める頃、コハダの幼魚が極少入荷してくる。シンコだ。
 シンコの初入荷時、江戸前すしの世界には心地よい緊張感が走る。この極く少量のシンコを、まるで相場の暴騰を愉しむかのように、上物を扱うすし屋と職人達が、店と仕事の、意地と誇りと見栄をかけて奪い合うことになるからだ。シンコの世界には、いまだに見事な江戸っ子の心意気の世界が生き続けているのだ。
 初物から2週間位の間、通常のコハダの30倍から50倍の相場に暴騰する。握り1貫に3枚から5枚付ける。値段も大変だが、仕込みの手間も大変だ。浅く、軽く、爽やかに、コハダの幼魚の美しさを損なわずに、しかもコハダの旨さも取り入れなくてはならない。塩加減も微妙だが、酢の漬け込みも勝負どころとなる。
 江戸前すしが最も大切にしているコハダの、新しい生命の誕生と、一潮毎に見事に成長してゆく幼魚への畏敬の念を込めて仕込んでゆくのだ。この時期、このシンコを、値段や手間のことなど、一切とやかく言わず、ただただ旬の初物を愛でて「走りの旬を愉しむ」のが、江戸っ子の、江戸前すしの、粋の世界と言うことになる。

引用:「Sushi 鮨」 長山一夫著
第三刷発行 ピエ ブックス刊
2003年10月18日初版発売
参照:増補「江戸前鮨 仕入覚え書き」長山一夫著
第二刷発行 アシェット婦人画報社刊

 どうぞ、江戸前握りすしの元祖であり、華であるコハダ・シンコの世界をお楽しみ下さい。

平成21年7月21日

 

↑『増補』のその後の目次へ